昨日の続き

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日本人はディベートが下手だ。ビジネスを分かっていない。などとアメリカ人に言われる。ディベートの場ではなかなか発言しない。分からないことはないかと問われて、分からないことがあっても分かっていないとハッキリ言わない。実行に移すときに分からないと判明して、いちいち説明を初めからやり直さなくてはならない知り合いのアメリカ人の先生は英会話の授業でちょっとキレかけた(軽くね)。同様のことは、高校の時にもあって、カナダ人のALTの先生は何でこいつらはちゃんと質問しないんだ、という表情をしていた。

また先日ネットでニュースを読んでいると、漫画文化を日本から売り込みにいく会社が現れ、欧州の会社の人に「やっと日本にもこういうビジネスをする連中がやってきたか」といったことを言われたらしい。それまでは、日本の素晴らしい漫画の放映権などをわざわざ欧州から「買い付け」に来ていたらしく、日本の漫画・アニメ業界の人は欧州のアニメ熱を理解していなかったようだ。大きいにビジネスチャンスがあるにもかかわらず、日本からそれを掴みにやってきたのはしばらく経ってからだったようだ。

日本人の(良く言えば)奥ゆかしさや慎ましさが表れている反面で、国際的な舞台での行動の仕方が分かっていないようだ。逆に、昨日の雑記の例で言えば、よろず相談室にあそこまで気を使って行かなくてもよかったのかもしれないし、飲み会に当日ドタキャンしてしまっても実は考えているほど迷惑はかけなかったのかもしれない。それが日本流か。

別にどちらが悪いとか良いとかと言っている訳ではなく、適宜意識的に使い分けなくてはならないと言いたい。だからこそ、「言いたいことはハッキリと言え」という、(どちらかといえば)国際的な場での共通の常識(約束)の論拠を唯一的に考えようとしたとき、筆(タイプ?)が止まってしまったのだ。

繰り返すが、ハッキリと言わないことは悪ではない。「ハッキリと言わなくても(どう行動すればよいか)分からなくてはならない」というのが日本人の良識であって美徳なのだ。それを良識や美徳とすること自体は悪ではない。しかし、この国際社会においてその一国家における常識(約束事)を相手に強いることは出来ない。

常識とは約束である。昨日はこの主張を展開しようとした。(一国家ではなく)一共同体におけるローカルな文化に対して約束という観点から分析を試みた。「約束されているもの」-「共同体のルールや常識」-「道徳」がその根底をなすと。

日本が第二次世界大戦で破れ今日あるような民主主義の道に乗り出してまだ60年弱。江戸時代が終わってまだ135年。多文化との折り合いの仕方がなかなか浸透しない。アメリカ留学に向けて、文化の差異性とどのように向き合っていくか考えたい。

昨日の話も結局そこまで深く考えなくていいんだろうね。わざわざ律儀に行かなくてもよかったし、打ち上げぐらいは四の五の言わず行けばよかったんだろうね。バイトって自分のためにしているわけだし、イベントがあるときはそっちを優先するという良識がかけていたのかもしれない。あと、先日読んだ『気流の鳴る音―交響するコミューン』の影響で文化だとか国際社会だとかを考えたかったのかもしれない。でも、いつもそんなコト考えているんですか、と問われれば、いつもこんなコト考えているんです。

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