つらつらと

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この時間帯になると思考力が下がってくる割に、
なぜか副交感神経が興奮しているのが眠れる気配ないなし。

おそらく7時間位前に食べた特特けやき丼のせいか?
まだ胃に半分くらい残っているし。

そんな感じでどーでもいいような日記を書く気だけはまんまんです。

さて、最近、言いたいことはハッキリと言わないとなとか思います。

助手の先生がそういう方でゼミ発表のときとかは
ダメ出しをもらって参考になったりしています。

以前、就活中に某外資金融の課長クラスっぽい人と面接をさせてもらいましたが、

「人間って、動物と一緒でちゃんとしつけなくてはならない。違う場所で用を足したりしたら鞭でしばいて教えなくてはいけない。それもすぐに。だって、半年前の失敗を半年経って叱ったって本人は忘れているでしょ?」等々...。

さすが外資、私はこういう環境が好きです。

日本人的ななあなあで表面は穏やかにしておこうというような、
悪しき気質が働くような会社では働きたくありませんね。

今の研究室での環境がなかなか厳しくていいだけに、
4ヵ月後に入社する会社の社風はいったいどうなのか
余計に気になっています。

もちろん、そういう気質が悪なのではなく、
ディベートや研究・ビジネスといったシーンで
「使い分ける」ことすらできないのが悪いわけです。

私も穏やかな雰囲気は好きですが、それを最優先化するあまり、
叱ってることも分からないような叱り方をしたり、
間違っている部分も分からないような間違いの指摘の仕方をしたり、
「何をすることがベストか」ということを考えられない人っていうのはいかがなものか~。

自分を批判的に見てくれる人は常にそばにいて欲しいですね。


話は変わって、ちょっと前にいじめ自殺が話題になってたころに、
岩本悠の『流学日記』を読み返していて、
ニュースから聞こえてきた違和感を覚えたフレーズ:

    「命の大切さ」

ってのがありました。

岩本が旅したインドでは、生と死が紙一重のところにあって、

死んでいると思っていた路上の物乞いが足をつかんできたり、

生きていると思った「死を待つ人の家」の患者を
一生懸命マッサージしていたら、
後ろに立った医師から「彼は死んでいるよ」と言われたり、

まさに生と死が入り混じっていたのです。

    「命の大切さってなに?」

と問われても答えなんて見つからないように思います。

命があるのかないのということがそんなに大切か?と思えてきます。

むしろ、

    「生きているか、生きていないか」

の方がピンとくる表現ではないでしょうか。

つまり、

    「「生きる」ことの大切さ」

命があるのに、さも生きていないかのような人間もいますし、
故人にもかかわらず、多くの人の心の中でいまだに生きているかのような人間もいます。

そう考えてみると、どうも命というものはただの個体に過ぎず、
本当に大切なことはどう生きるか、
つまり、生き方そのもののように思えてきます。

そういった意味で、命を絶つことと命を絶たずに死んだように生きることとは、大きな差はないように感じられます。

豊かな現代に生きる私たちというのは「生きる意味」
(=生きていると感じられる生き方)を探すことに、
非常に躍起になっているように思えて仕方が無いのです。
(素人な表現ですが)

岩本の流学にしても、

普通の生活に疑問を感じたアメリカの大学生3人が全米を駆け回り、
興味のあるあらゆる成功者に自分たちの年代のころ何をしていたか、
をインタービューして回ったRoadtrip Nationにしても、
http://www.roadtripnation.com/

そして、私の留学・旅にしても、

自分を見つけ、自分らしく生きるということを
岩に食らいついてでも貫きたかった衝動の表れかもしれません。

    今日も、自分らしく生きているのか?

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