人間が好き

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先日、散歩をしていて、ふと「俺、結局人間が好きなのかな?」って思った。最近、自分について分析的に考えることが多いんだけど、「なぜ英語なんだろう?」ってずっと思ってた。

英語を習い始めたのは確か小学校5年生の夏からだった。弟が公文に通ってて、夏の体験学習みたいなキャンペーンをやっていたので母の勧めで始めてみた。公文の英語って、算数や国語同様、A5ぐらいの大きさの問題プリントを解くだけなんだよね。蟻の絵を見てantと書かせたりとか、実際にネイティブスピーカーと英会話の練習って感じじゃなかった。当時の自分がそれについてどう思っていたかはよく覚えていないけど、とりあえず英語の勉強を始めたきっかけは公文式で、中学3年までは通い続けてた。中学からは、もちろん、義務教育でも英語を習い始めた訳だけど、そっちのほうはそこそこ覚えてる。ちょうど中学に進学した当初は野口悠紀雄の『「超」勉強法』がベストセラーになってて私も購入した。この本に従って、英語の文章(教科書)を何度も何度も声に出して読み、単語ではなくセンテンスとして英語を捉えるという意識で勉強していた。声に出して読んでいると、自分が上達したのが即座に分かるし、ネイティブスピーカーが吹き込んだテープと比較して勉強していたので目標も明確だった。幸いにも、英語の成績も良い方だったので、この方法で楽しく勉強していた。

高校に入ると、俄然勉強量が増えた。どの教科についてもそうだった。私の場合、他の科目の勉強は差し置いてでも英語の予習は熱心にしており、授業の前の日なんかは3時間ぐらい費やしていた。具体的には、文章中で意味の分からない単語を辞書で引き、的確な訳が載っている項目は全て単語帳に写していた。そして、分からない単語がなくなった時点で教科書を音読し、ある程度すらすら読めるようになったらテープを聴きながらテープの声に近づけるよう何度も反復していた。また、入学当初から英語研究会に所属し、週一回の活動ではALTの先生と英語で会話をする機会ができた。スピーチ大会(英語弁論大会)などにも出場したり、部長を務めたりと精力的に活動していた。あと、高校2年生の頃に英語の所謂「コミュニティ」(ある関心のもとに集まったインターネット上の集団?私の場合は単に"10代"というカテゴリーにあった集団)で、アメリカ人と友達になり(顔はお互い知らない)メール交換などをやっていた。こちらの方は、関心がだんだん希薄になり長続きはしなかったが。

さて、問題は「どう?」ではなく、「なぜ?」英語なのか、という点。今のところの考えでは、やはり英語を通して英語圏の人々----アメリカ人やイギリス人、ひいては英語を話せる世界中の人々全て----と意思疎通が可能だという事が、私にとって非常に魅力的なのだろう、魅力であってきたのだろう。大学1年の夏休みには第49回国際学生会議に自分で参加し、外国の参加者とは英語を通じて、日本人の学生とは日本語で話をし、それまで全く会ったこともなかった人達60人前後と友達になったのだ。非常に楽しかったし、かけがえのない時間を共有したと思っている。正直、色々な面からこの事(英語への興味)を考えていて、単に英語という外国語に自分の差異性を求めていたのかな、なんのことはない、ただ「かぶれて」ただけなのかな、とか考えてた。人が好きかもしれないという考えが浮かんできて、色々謎が解けた感があった。というより、ある意味まっとうな答えだって肩の力が抜けた気がする。

謎が解けたと言うのは、例えば、今情報科学の分野で人工知能、特に人工知能とは何なのか、人間と比較してどう違うのか、という事に興味がある理由についても分かった気がしたということ。つまり、そもそも人間に興味があるわけで、その精神活動を「考える頭(mind)」と「感じる心(heart)」に分けたとして、第二次世界大戦後のコンピュータの発達によって、特に「考える頭」の方をコンピュータによって擬似的に模倣できないかという試みが人工知能だという分野だと勝手に思っていて、その人間とかかわりのある分野に興味が湧くのは自然なことだなと納得できたということ。他の分野については正直よく分かってすらいないが、暗号や量子コンピュータなどには、どうもそれらの対象が理論上のものでありすぎて関心が持てない。本当は「心」の方に興味があるのだが、それと対比させて「頭」を考えていくことで研究意欲を燃やしたいなと思う。まだ先の話だし、大学院へ進学する気は今のところなくなっているので、とりあえず研究室を選ぶ段階になって困惑するだろうという不安を上のような考えでごまかしている。実際に先輩の話を聞くと、こういう純粋理論系の話は非常に難しいらしいけど、逆に言えば今のうちから準備を進めておけばなんとかなるかなとも思っている。

また、情報科学科を選んだ理由についても、パソコンやインターネットが非常に利便性の高い道具に思えて、それらについて大学で学び、それらの恩恵を、ビジネスならビジネス、教育なら教育の場で活躍する「人々」(またはその人間関係)に十分に与えたいと思ったからだった。それに加えて、理系への適性もあったし、コンピュータへの関心もあった。哲学や物理にも大いに興味はあったけど、それらの学問を学んだところで将来食ってけないな、と勘違いをしていた。もちろん今更進路を変更する気はない。話はそれるが、正直なところ、理科大にもっと大学らしく人文社会学系の学問を一般教養として充実させて欲しいという気持ちはある。所詮、現状は文部省指定の教職科目としてそれらの学問を敷いているに過ぎない(と思う)。中には、立派な研究者の先生もいらっしゃるが、非常勤やある意味アカデミックポストを狙っている人へのステップアップ・バイトの場を与えるだけの講義が多々見受けられる。そういう両者の思惑が一致したのがこの理科大だろう。もちろん、情報科学を勝手にコンピュータと結びつけ、こんな数学や理論的な勉強ばかりをしなくてはいけないところだということを認識しておらず、自分の興味(人間への興味)が十分生かせないと嘆いている私自身にも間違いなく非はあるだろう。とにかく、理科大を専門家養成機関として考えることで最近落ち着いてきた。自分の「興味」と「適性」を明確に区別して捉えることのできなかった、かつての自分に憤りはあるのだが。とりあえずは、半年の留学を通して大学時代に学べるもの、学ぶべきもを学んでこようと思う。

別の「謎」だけれども、今こんなにも自分について考えあぐねているのは、今まで周りの人間関係を楽しく保つことに注意が注がれていたからだろう。「みんな楽しく、自分も楽しく」ではないが、高校以前ではクラスや部活の友達とのお喋りといった楽しみに埋没してしまっていたのだ。逆にそれが自分自身のキャラだと思っていた。大学進学においても、先に述べた興味と適性の混同で、自分の自分に対するイメージに深い疑問を投げかけることはなかった。むしろ、今やっていることは正しいと信じていた。確かに、前と後とでは分かることと分からないことがあるので、後悔しても仕方がないのだろう。だから今、以前のアイデンティティを破り、新しいアイデンティティを確立しようとしているのではないか!今でよかったと思うべきだ。

また話はそれるが、なぜ今かと考えてみると、恐らく、大学という場において学生間の人間関係がそれ以前のものより希薄だからであろう。講義ごとに教室も違うし、全く同じスケジュールで講義を取る友人もいない。自然発生的にできる「クラスの友達」も必然的に少なくなってくるし、その友人たちと共有するものも少なくなってくる。また、大学という場が学生たちにとっての占める割合が、かつて高校生だったときの高校、中学生だったときの中学校、と比べて小さい。アルバイトやサークル活動など大学の外へと意識は向いている。サークル活動も大学との関連性はほとんどないので外のものとしてよいだろう。私の場合は特に高校時代にはアルバイトをやっていなかったのでこの変化の影響は大きい。さらに、話がそれるが、大学によっても事情は違うはずだ。しかし、特に理科大では周りに喫茶店やファーストフード店がほとんどなく、友達と学校帰りによって色んな話をするといった機会も乏しい。言い出したらきりがないが、書店などもなく「学生文化」が理科大にはない。研究のための施設といった要素が大きいと疑っている。周りに大学もなく、「ダイガクセイ」という共通の所属を共有した人間関係も繋がらない。実際には大学周辺に住む学生も多いので、なんからの学生文化は根付いていうのかもしれない。そもそも私自身が学生文化というものを理想化していて、(他の大学にはあるかもしれない)それを理科大に求めているのが間違いなのだろう。色々不満を書き散らしたが、結局は専門家養成機関として認識するのが正しいのだろう。理系=理科=Scienceだから、そこに人間的なものを持ち込みづらいと思える。(←なぜここまで悲観的に思うかというと、社会学を専攻している知り合いがwebで公開している日記を最近読んで、その学生生活が私の理想としてるものに近くて羨望を覚えたからであろう)

とにかく、話を2段落前に戻すと、希薄になった人間関係が私を孤立化させてしまったのだ(これは私が大学から離れた場所で一人暮らしをしているという自己責任もある)。自ずから私の意識は私自身へと向き、私自身を問い始める。この詰問と、かつてよりの英語(人間)の関心から考えていた留学が、変な形で接触し大学入学当時から理科大を離れ、アメリカの大学を卒業してしまおうという、ある意味突飛な、考えが生まれてきた。今になってやっと留学の関心そのものなどについて、ここまで考えることができた。これも社会学を専攻している知り合いのおかけだったりするかもしれない。言葉で受けたものを、言葉として出力しようとしたのかな。もちろん常に色々な考えが頭の中をめぐっているのだが、現在の考えは上の様な感じである、ということをここに記しておく。

最後に、この文章を読んでいるあなたが私の高校以前のクラスメートなら、「お前暗いヤツやったやん」などと思っているかもしれませんね。もともと、一人でいることを好む性格だったし、スキルとして人間関係をうまくやっていく方法をそれほどは知りませんでした。ただ、単に聞き手としてでも友達と話をしているのは楽しかったし、そうである自分がちょっとは好きだったんですよ。

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