僕はシステム屋ですが、システムを作るにはどんなシステムを決めなくてはいけません。
それを決めるのはシステム屋ではなく、お客さんです。
かといって、お客さんは1から100までを決めるわけではない。
こっちである程度、青写真を描きがなら、どうしてもお客さんでしか決められないところは、
いくつか選択肢を持っていって決めてもらう。
昨年の11月くらいから実際にシステムを作るのではなく、どんなシステムを作るのかまず決まる、
という辺りの仕事をしていました。
なかなかきつく、やりたくないなと思いつつも、かといって諦めたくもないなと悶々と取り組んでいました。
去年のクリスマス、結局このプロジェクトは立ち上がらないことになりました。
当初からある程度、その目算はあったのですが、とりあえず青写真まで作ってみようと始まりました。
正直にその時は、あーこんなしんどいの続かなくてよかった、と思いました。
しかし、せっかく仕事で成長できるチャンスだったのに逃してしまったのかも、と少し悔しみました。
最近また忙しくなって、上のような仕事をやり始めたわけではないけれど、
細切れの仕事が沢山あって、To-Doリストにはメモ帳一枚では収まらないようになってしまった。
それでもいい機会だからと取り組んでいて、なかなか締め切りも近いものも多く、
日々闇雲に仕事を消化している毎日でした。
そんな中、昨日早退したあとに来たメールで、木曜日のMTGを一回スキップするとの連絡。
このおかげで随分と楽にはなりそうです。
しかし、う~ん、なんなんだ、この現実。
自分なりにどう意味づければいいのだろう??
嫌だな、なくなればいいのに、と思ってしまったから本当に無くなったのか。
諦めたくないなとは思っていたけれど、神様みたいなのがぎりぎりまでのところで許してくれたのか。
後者ではなく前者なのかもしれないけれど、前者を認めたくなく後者にしてしまいたい自分がいますww
でも成果出してないからねー。
仕事ってちゃんとここからここまでやるものだと決まっていると思っていました。
最初|<------------>|最後
最初|<------>|途中
最初|<-------------------->|先延ばし
途中で終わったり、先延ばししてもいいよと言われる、この不完全燃焼感はなんでしょう。
文の最後でまだ句点を打っていない中途半端感というか。
誰かの見えない手の中で転がされている感覚に近いものを感じます。
逆にこれが旅の中であれば、
ある都市を見切っていないけれど途中で次の都市へ行くことになったりだとか、
何もないけれどもうちょっとこの都市に滞在してみようかとか、
そんなことも全然オッケーです。
違いはなんでしょうか。
その答えは、自分で選択しているかどうか、ということかな。
自分で選択していればその結果にも納得できるし、満足できるもの。
サラリーマンである以上、旅のような満足感は得られないのか。
だって、何をしてもしなくても毎月25日には給料が振り込まれますから。
もう少し深掘りしてみれば、自分で選択しているという手ごたえを得られるかどうか。
選択するだけでは終わらない訳で、選択によってどんな結果を得られるか。
というよりも、その結果にどんな意味付けをすることができるのか。
最近、旅の上でのあらゆる選択を満足に変えられる人間だと自分自身を思えるようになってきましたが、
それを仕事に応用するのはなかなか難しい。
締めがわけわからなくなった文章ですが、最後に以下のフレーズを引用してみたい。
「この世には二種類の人がいる。
一方はすきあらばアクノリッジメントしてやろうとしている人で、
もう一方はアクノリッジメントされることを待ってる人だ。」
(『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』鈴木義幸・著)
旅は非日常だ、なんていうけど、その旅人にとっての非日常は、現地人にとっての日常です。
ならばなぜ、自分の日常を非日常に思えないのか?
これは最近の、そして永遠のテーマではあるのですが、
その答えの一つにアクノリッジメント(=存在承認)がある気がしています。
へー、こんな美味しいものがあるんだ!
うわ~、すげー綺麗な景色!
うそっ、この国じゃこんなありえないこと起こっちゃうの?!
というようなその国の日常をアクノリッジメントすることで、旅の感動は生まれている気がします。
(逆に、アクノリッジメントできない人間が旅をしても「ふーん」で終わってしまうんですよ)
だから、もっと、自分の日常をアクノリッジメントしようとということなのですが、
えてして、アクノリッジメントしてくれることを待ってしまうものですね。。
アクノリッジメントされる?
旅の中で言うならは、「日本から来たの?Cool」とか、珍しがられることでしょうか。
こんな東洋人がそれなりに英語なり現地語の挨拶なりを覚えていると珍しがられるものです。
そういう点も旅の魅力であり、魔力なのだろう。
アクノリッジメントと手ごたえ、かなり強引なこじつけです。
それを決めるのはシステム屋ではなく、お客さんです。
かといって、お客さんは1から100までを決めるわけではない。
こっちである程度、青写真を描きがなら、どうしてもお客さんでしか決められないところは、
いくつか選択肢を持っていって決めてもらう。
昨年の11月くらいから実際にシステムを作るのではなく、どんなシステムを作るのかまず決まる、
という辺りの仕事をしていました。
なかなかきつく、やりたくないなと思いつつも、かといって諦めたくもないなと悶々と取り組んでいました。
去年のクリスマス、結局このプロジェクトは立ち上がらないことになりました。
当初からある程度、その目算はあったのですが、とりあえず青写真まで作ってみようと始まりました。
正直にその時は、あーこんなしんどいの続かなくてよかった、と思いました。
しかし、せっかく仕事で成長できるチャンスだったのに逃してしまったのかも、と少し悔しみました。
最近また忙しくなって、上のような仕事をやり始めたわけではないけれど、
細切れの仕事が沢山あって、To-Doリストにはメモ帳一枚では収まらないようになってしまった。
それでもいい機会だからと取り組んでいて、なかなか締め切りも近いものも多く、
日々闇雲に仕事を消化している毎日でした。
そんな中、昨日早退したあとに来たメールで、木曜日のMTGを一回スキップするとの連絡。
このおかげで随分と楽にはなりそうです。
しかし、う~ん、なんなんだ、この現実。
自分なりにどう意味づければいいのだろう??
嫌だな、なくなればいいのに、と思ってしまったから本当に無くなったのか。
諦めたくないなとは思っていたけれど、神様みたいなのがぎりぎりまでのところで許してくれたのか。
後者ではなく前者なのかもしれないけれど、前者を認めたくなく後者にしてしまいたい自分がいますww
でも成果出してないからねー。
仕事ってちゃんとここからここまでやるものだと決まっていると思っていました。
最初|<------------>|最後
最初|<------>|途中
最初|<-------------------->|先延ばし
途中で終わったり、先延ばししてもいいよと言われる、この不完全燃焼感はなんでしょう。
文の最後でまだ句点を打っていない中途半端感というか。
誰かの見えない手の中で転がされている感覚に近いものを感じます。
逆にこれが旅の中であれば、
ある都市を見切っていないけれど途中で次の都市へ行くことになったりだとか、
何もないけれどもうちょっとこの都市に滞在してみようかとか、
そんなことも全然オッケーです。
違いはなんでしょうか。
その答えは、自分で選択しているかどうか、ということかな。
自分で選択していればその結果にも納得できるし、満足できるもの。
サラリーマンである以上、旅のような満足感は得られないのか。
だって、何をしてもしなくても毎月25日には給料が振り込まれますから。
もう少し深掘りしてみれば、自分で選択しているという手ごたえを得られるかどうか。
選択するだけでは終わらない訳で、選択によってどんな結果を得られるか。
というよりも、その結果にどんな意味付けをすることができるのか。
最近、旅の上でのあらゆる選択を満足に変えられる人間だと自分自身を思えるようになってきましたが、
それを仕事に応用するのはなかなか難しい。
締めがわけわからなくなった文章ですが、最後に以下のフレーズを引用してみたい。
「この世には二種類の人がいる。
一方はすきあらばアクノリッジメントしてやろうとしている人で、
もう一方はアクノリッジメントされることを待ってる人だ。」
(『コーチングのプロが教える「ほめる」技術』鈴木義幸・著)
旅は非日常だ、なんていうけど、その旅人にとっての非日常は、現地人にとっての日常です。
ならばなぜ、自分の日常を非日常に思えないのか?
これは最近の、そして永遠のテーマではあるのですが、
その答えの一つにアクノリッジメント(=存在承認)がある気がしています。
へー、こんな美味しいものがあるんだ!
うわ~、すげー綺麗な景色!
うそっ、この国じゃこんなありえないこと起こっちゃうの?!
というようなその国の日常をアクノリッジメントすることで、旅の感動は生まれている気がします。
(逆に、アクノリッジメントできない人間が旅をしても「ふーん」で終わってしまうんですよ)
だから、もっと、自分の日常をアクノリッジメントしようとということなのですが、
えてして、アクノリッジメントしてくれることを待ってしまうものですね。。
アクノリッジメントされる?
旅の中で言うならは、「日本から来たの?Cool」とか、珍しがられることでしょうか。
こんな東洋人がそれなりに英語なり現地語の挨拶なりを覚えていると珍しがられるものです。
そういう点も旅の魅力であり、魔力なのだろう。
アクノリッジメントと手ごたえ、かなり強引なこじつけです。
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